食品開発男子のゆる〜いマナビブログ

30代食品開発系男子の学びと日常のゆる〜い雑記ブログ

大阪=粉もん文化? なんでなん!?

今回は大阪に諸用できております。

大阪というば粉モン文化!たこ焼き!明石焼きお好み焼き!

くいだおれの街ですよね!

 

コンビニみたいにありますね!

 

しかし、ふと思ったのですが、 そもそもなんで大阪は粉モンが有名なんでしょう?

粉モン(=小麦粉)の一大産地(日本だと完全に北海道)ってわけでもないですしね。

 

なんでやねん?

 

ということで、今回はこちらを調べてみたで!

いろいろ調べてみたら、何や自分の説ができてもーたわ!

見たってや!

・・・と、著しくウザいエセ関西弁でこめんなさい。。笑

 

◆ということで、ここからは調べた内容を。

まず、いろんなサイトを調べていて共通した部分としては、

できた料理の順番が「お好み焼き」⇒「たこ焼き」の順番だということ。

 

お好み焼きの歴史は・・・

そのルーツは、安土桃山時代にあの千利休が作らせていた「麩の焼き」が始まりと言われています。

千利休って、戦国時代ですやん!!そんなに昔のものがルーツなんですね。

「麩の焼き」とは小麦粉を水で溶かして薄い生地を作り、芥子の実や味噌、砂糖を丸めて食べる和菓子のこと。

その後、江戸時代にはもんじゃ焼きの前身と言われる「文字焼き」が流行。

明治に入ってソースが普及してからは、小麦粉に肉や魚介類を混ぜて作る「どんどん焼き」が全国的に広まりました。

一方、大阪では戦後の貧しい時代に空腹を満たすため小麦粉にキャベツを混ぜ、カサを増やして食べるようになりました。

それが大阪におけるお好み焼きの始まりと言われています。

 

たこ焼きの歴史は・・・

歴史は意外に浅く、昭和30年代から。

たこ焼きの創始者大阪市西成区の食品会社「会津屋」の初代・遠藤留吉と言われています。

元々は「ラヂオ焼き」といい、小麦粉に小さく切ったコンニャクと天かすとネギと紅ショウガが入ったものだったそう。

タコが入るようになったのは戦後のことなんですって。

 

お好み焼きとたこ焼きの歴史はわかったけど、

なんでこれが東京でも福岡でもなく、 大阪の名物になったのか??

 

◆なんでなん?

いろいろ調べる中で、正直この質問にきちんと回答しているものはありませんでした・・・

回答になっているような、なっていないような記事しかないんですよね。。

ただ、断片的な情報はそれぞれあったため、自分なりにつなぎ合わせてみると、

こんな流れなんじゃないかな~という自分なりの納得感は得られました。

この3段階を踏んだことで、大阪で粉モンが文化となっていったんじゃないかな~と。

 

段階①:江戸時代  うどんが大阪で広まり、小麦粉=いいもんというイメージが庶民に定着!!

江戸時代、大阪城の築城のときに工員たちにうどんが提供されていたそうで。

さらに、大阪の「だし文化」も手伝って、大阪でだしたっぷりのうどんが大流行!!

これによって、小麦粉=いいもんとして、庶民に定着したようです。

まずはうどんが浸透し、粉モンを受け入れる文化が全国の中でも強かったんですね。

ちなみに、大阪が「だし文化」だったというのは、  

 ・江戸時代の頃に大阪は昆布の流通が多い  

 ・大阪は軟水で旨みを引き出せた というのがキーだったようです。

 

段階②:戦前  この時代にうどんだけでなく「洋食焼き(お好み焼きの前身)」が庶民に定着!!

明治頃になると舶来品が日本に入ってくるようになるんですが、本格的な洋食屋は高くて庶民にはまだあまり食べられない存在。

そこで、メリケン粉(小麦粉)を薄くのばした生地に、 当時まだ高かったキャベツを入れてソースを塗った「洋食焼き」というのが生まれるんです。

粉モン=いいもんの文化もあって、この「洋食焼き」の屋台が大阪に多く存在し、大阪の庶民にも定着していきます。

 

段階③:戦後  GHQの米の代用食政策が大阪からスタートし、「お好み焼き」が定着!!

終戦近くなると、国内に米が足りなくなり、人々は小麦粉で すいとん などを作って飢えをしのいでいました。いわゆる代用食ですね。

戦後もしばらくその状態が続き、アメリカは大量の小麦粉を日本に送り、学校給食にもパンが付くように。

当時、アメリカ式の食事の普及のためにキッチンカーを作り、各地で小麦粉を使った料理を伝えて回ったそうです。

それが初めて導入されたのが大阪だったんですって。

さらに、小麦粉料理に戦前から親しんできた大阪ではアレンジも加わりました。

戦前からあった「洋食焼き」が、戦後は「拾円焼き」「キャベツ焼き」などと名前を変え、具材も臨機応変に変わりながら続いていきました。

そして、現在の「お好み焼き」に至るのです。

 

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どうですか?

段階①~③をそれぞれ大阪粉モン普及の理由としている記事が多いのですが、 ①~③の流れがあって普及したと考えるのがしっくりきませんか?

それぞれの時代の庶民へ定着する流れがあって、 今の大阪の粉モン文化につながっているんです!!

文化にも根拠があるんですね~

 

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ということで、今回は粉モンの歴史を調べるつもりが、 自分なりの解釈を加えた形になりました。

段階①~③という流れを踏んだというのは私の仮説ですが、 ①~③それぞれは単独の事実となります。

その点は誤解なきよう誤認識ください。

 

さーて、すっきりしたところで、ほなごっつ美味い粉モンを食べてくるでー

ほな、さいなら。

 

今回の記事で参考にしたHP

粉モノ歴史館|お好み焼きネット

お好み焼きの歴史 | お好み焼きの歴史と未来 | オタフクソース

Konamon Flour-Based Cuisine — Google Arts & Culture

粉もん文化|さくら日本文化体験教室 京都

たこ焼き!お好み焼き!大阪人の粉もん好きはなぜ | ~スポーツまとめ~ スポラボ-SPOLABO